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デュフィ展

展覧会レポート

2014.07.30

渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムでやっていたデュフィ展に行ってきました。
デュフィは洗練された色使いと、従来のセオリーに当てはまらない構図の取り方がすごい、というイメージ。一応フォーブの画家に分類されています。
固有色の呪縛から解き放たれた点ではそうですが、デュフィの作品は野獣というよりはむしろ上品で調和が取れています。

第1章 1900-1910年代 造形的確信のただなかで

印象派以後の画家たちにとってゴーギャンのような色面か、シニャックのような点描で対象を据えるかは重要な問題でした。セザンヌ、アンリ・マティスの≪豪奢、静寂、逸楽≫に影響を受けております。

pick up
『サン=タドレスの桟橋』‥上方の水平線が構図の中心に。落ち着かなくなりそうなものなのに、見事にまとめあげています。
『トゥルーヴィルのポスター』‥見えるものの再現から解放され、明るい色彩の対比お、単純化された形体で画面を構成されています。
『レスタックの木々』‥セザンヌの影響をかなり感じます。
『レスタックのアーケード』‥グラデーションが少しずつ洗練されていく‥
イエローオーカー、バーントシェンナ、ビリジャン、ブルーに黒くて太い輪郭線。同じような色調。
『かごのある静物』‥デュフィっぽさが出てきます。いきいきと上へ上へと伸びていく踊るような線が素敵です。
『浴女』‥線で対象を据えようとしている

第2章 木版画とテキスタイル・デザイン

デュフィはテキスタイルデザインも手がけるようになります。
布では模様を染織する際、色によって異なる版が用いられ、輪郭線と色面がずれる事があり、デュフィはそれを絵画に応用して線と色彩を分離して表現するようになしました。
一方版画ではハッチング(一定の面を平行な線で埋める技法)が多様され、光を生じさせる事と画面を装飾する効果と生み出しています。
主人公と周辺のものは線や模様の繰り返しによって一体化し、全体として均質な白黒の装飾的な画面として仕上がっています。

pick up
『三頭の馬』‥版画。白と黒の分量がほぼ一緒。よく見ないとわからないが、分かった時は快感。

第3章 1920-1930年代 様式の確立から装飾壁画の制作へ

線と色彩の自立、総力的な記号、光と色彩表現といった様式を確立させます。
デュフィは『青』を色調が変化しても本来の個性を保ち続ける唯一の色彩であると考えていました。
確かに、デュフィの青は印象的。
家具、陶芸作品もあります。

pick up
『ル・アーブルの水上の祭り』‥馬、馬、馬。同じモチーフの規則的な繰り返し。
『突堤ーニースの散歩道』‥色の帯がすごく考えられています。
『クロード・ロランに捧ぐ』‥17世紀の画家、クロード・ロランを「私の神である」と語っています。
『ドーヴィルの競馬場』‥描く所と描かない所のバランス感がすごいです。建物、馬のオレンジが効いています。
『馬に乗ったケスラー一家』‥有名なパンフレットの表紙になっている絵です。色面を敷いて、茶で線書きしており、柔らか雰囲気です。
背景のブルーとグリーンが人物や馬に映り込み、逆に背景には馬で使用されている褐色が幹に使われています。
馬に入ったパステルブルーが馬の褐色を一層引き立て、また、ブルーを全体的にちりばめることで、鮮やかな色彩でも浮かずに溶け込む効果を発揮しています。
『ヘンリーのレガッタ』‥これも、描き込まれている所とサッと線だけの所のバランスが神です。相当の神経質に考えているんだろうな‥と想像させられます。
特にイギリスの旗。

第4章 1940-1950年代 評価の確立と画業集大成

音楽家へのオマージュでは、色彩の使い方、線の繊細さが、尊敬や愛情に溢れています。
この爽やかさ。
音楽一家であったデュフィにとって、音楽は生活の一部であり、あのバランスのとれた色調、軽やかな筆致に影響を与えているのでしょう。

pick up
『黒い貨物船と虹』‥黒の闇としての再現的な価値が保留され、周囲の色彩との関係から黒が光を喚起させることが目指された(解説より)
           第二次世界大戦後に描かれたモチーフであり、デュフィにしては重くて暗い作品。しかし線の繊細さは失われていない。
『果物鉢』‥赤+黄。線は青。デュフェの赤は赤なのに上品さが醸し出されているから不思議。
『クロード。ドビュッシーへのオマージュ』‥黄が下に敷いてあり、爽やかでエレガント。

デュフィの画面では線と色がそれぞれが独立した状態で見ても美しいです。
だからこそ重なったときにここまでの調和があらわれます。

また、デュフィはスケッチもとにかく線が美しいです。
スピード、動かし方、太さ、ハッチング‥
サッと引いただけに見えるのに、繊細で詩的。
こういう生きた線がかけるようになりたいものです。

ラウル・デュフィ(1877-1953)
1877年 フランスのル・アーブルで生まれる。
1891年 家族を養うためにブラジルコーヒーの輸入業者に務める。
1893年 ル・アーブル私立美術学校の夜間クラスを受講する。
1895年 ドラクロワの『トラヤヌスの裁定』に感銘を受ける。
「この作品で私は開眼し、人生で最も強烈な印象を受けた」と述べている。
1899年 パリの国立美術学校のレオン・ボナの教室で学ぶ。ルーブル美術館よりも印象派を好む。
1901年 アルベール・マルケと知り合う。 
1903年 ジョルジュ・ブラックと出会う。
1904年 ポール・シニャックの展覧会を訪れる。
1905年 アンリ・マティスの『豪奢、静寂、逸楽』を見る。
1909年 デザイナーのポール・ポワレと知り合う。
1910年 ギヨーム・アポリネールの『動物詩集あるいはオルフェウスとそのお供たち』のための挿絵版画の制作を始める。
1911年 ポール・ポワレのために様々な装飾のデザインを行う。
1912年 ビアンキー二=フェリエ社と3年間の契約を結び、同社が独占的にテキスタイルを製造できるようデザインに従事する。
批評家アンドレ・サルモンがデュフィを「二流画家であり、最も偉大な版画家であり、一流の挿絵画家」とみなす。
1914年 第一次世界大戦勃発。ブラックと再開。
1915年 「ラウル・デュフィ版画」という小さな会社を設立。愛国心をあおる版画を制作。ル・アーブルの市庁舎での戦闘に自主参戦。
1917年 パリの戦争博物館の職員となる。
1919年 戦争博物館の職を解かれる。ビアンキー二=フェリエ社と2度目の契約を結ぶ。
1922年 オペラ座の1幕のバレエ『移り気』のため、舞台装飾と衣装を担当。イタリア、プラハ・ウィーン旅行。
1926年 モロッコ旅行。帰りのスペインのプラド美術館でティツィアーノの作品に感銘を受ける。
1929年 レガッタと競馬を描いたデッザン、絵画を制作。
1930年 ニューヨークのテキスタイル製造社オノンダガと共同制作。ケスラー一家の肖像画制作開始。
1932年 ケスラー一家の第二バージョンを描く
1936年 ワイン販売会社ニコラの商品カタログ「ワイン博士」のために制作された20枚の水彩画を展示。イギリスで初の個展。
1937年 600平方メートルの『電気の精』を描く。ナチスによる退廃芸術展に対し、マティスらと抗議文の共同著名者になる。
1938年 ニューヨークで初個展。
1940年 イタリアがフランスに対して宣戦布告。
1946年 ジャン・デュビュッフェの『あらゆる美術を愛する人たちのための案内所』の冒頭部分に励まされる。
1947年 パリでデッサンと水彩画を展示。
1950年 コレット『ある植物図集のために』の挿絵を制作。
1951年 ニューヨークで2度目の個展。
1952年 第26回ヴェネツィア・ビエンナーレにフランス代表として参加。大賞を受賞するが、イタリア人とフランス人の若い二人のアーティストのために賞金を辞退する。
1953年 コペンハーゲンのニイ・カールスベア美術館が重要な回顧展を企画。3月25日フォルカルキエにて死去。 マルク・シャガール臨席のもと国立近代美術館館長が弔辞を読む。

Bunkamura25周年特別企画
デュフィ展
絵筆が奏でる 色彩のメロディー

Bunkamuraザ・ミュージアム

2014年6月7日(土)〜7月27日(日)

観覧料 1,500円(一般当日)

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